人間によって作られた風景とは「人間が任意に加工したり造形」したりするものではなく、あくまでも「代々にわたって徐々に人間の実践が累積してきた」ものとしてある( 柳田邦男 ) 。いま我々の目の前に広がる風景とはどんなものだろう? 尖端音楽が示唆し暗示するサウンドスケープ、その時代意識にすべての答えが隠されていると、それを知りたいがためにぼくは尖端音楽だけを聴き続けてきた。
「極北」という言葉は文学的でなんだかずっと好きになれないでいた。それは若くして亡くなった音楽評論家がよく使っていたことの反動だろう。だけど2010年代尖端音楽のすべてが畏敬を励起するBen Frost " By The Throat " の頽廃音楽から始まり、緊張し研削された破壊的ノイズ物語を喚起しブラックホールのエントロピーが加速する2014年の ”Aurora” までのプロセスを俯瞰してみると、嫌がうえにもそこには極北という言葉が浮かび上がってくる。それは北の果て、北極に近い所や、物事が極限にまで達したところを意味するのだが、2014年の風景、我々の眼前にひろがる内的イマージュは、コントロール不可能な寒々とした極北の地まで漂流していることに疑いの余地はない。2015年はそれこそえらいことになる、のだろうね。エンプティセットの " Demiurge " がリリースされたブリストルのSubtextsからの、Eric Holm " Andøya " には北極圏/ノルウェイのアンドヤ島の電柱に設置したコンタクト・マイクによるフィールドレコーディング素材を再構築したインダストリアル・サウンドスケープが描かれているし、Roly Porterの " Life Cycle Of A Massive Star " にはワグナーの " 夢のような記憶の実行といえる景観 " と、宇宙と人間の間の相互作用、死の無意味性と、空想的なダイナミックレンジが歌われている。そのRoly Porterが音楽を担当しているベルリンのディレクターLukas Feigelfeldの2013年の " Interferenz " ( retina fabrik ) という映画がある。トレイラーしか観ていないのでなんとも言えないが、その物語は " 無価値な景色と、冷たい風がコンクリート・ビルディングに吹きつけ空に上昇する飛行機島について " の物語で、主人公Piwonkaは、厳しい条件のもとで働くことを強制される移動性の労働者のひとりで、掘削タワーの致命的な出来事が起こると、彼は、彼の愛する妻から切り離され、彼らの夢はばらばらにされる " というストーリーで、どこまでも凡庸で平和な日常に突然やってくるだろう不幸な事件を予見させるその映像には、何もかもが決壊している我々現代人の未来も暗示されている。何も起こらない幸せな春のポカポカ陽気の日常の裏側に潜んでいる、もののあわれと脆さをみる。この映画で話される台詞 " I have to be with Nadja " というのは、「私は何者か?」という問いから始まり、希望という意味のロシア語(ナディエージダ/始まり ) からつけられたというアンドレ・ブルトンの自伝小説「ナジャ」へのオマージュ? とも思える。小説「ナジャ」で示された美意識や愛についてのブルトンの言葉にあるように、音楽における美もやはり痙攣的なもので、「0gウェブ」ではなによりも中枢神経が興奮し亢進するような刺激放電が起こるものだけを取り上げて行きたい。